「受験番号34、斉藤一奥(さいとういちおく)。この子もダメね……」


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一塁ベンチからため息混じりの声を発した西島紀香(にしじまのりか)は、マウンドに立つ少年に冷めた目線を送っていた。


 秋の心地よい風が、黒く長い髪を遊ばせる。しかし、紀香は気にならないほど彼女の心はここになかった。それは現在、西島(せいとう)高校来年度野球部候補生のセレクション中でありながら、彼女のベンチに座る姿が教員スーツのままなのも物語っていた。

 

 何度聞いたのかわからない快音が、紀香の耳とグラウンドに響く。紀香は腕を組んだまま静かに立ち上がると、下を向いたままため息をついた。

 

「君、もういいわよ。ピッチャー交代して」

「え?先生ちょっと待ってくれよ。俺はまだ九人にしか投げてないぜ?」

 

 マウンドでキョトンとした少年の態度に、紀香は再びため息をつく。

 

「あなたねぇ……何を言ってるの?九人も連続で打たれれば十分でしょ!見なきゃいけない選手は、まだまだいるのよ」

 

 投げやりに言った紀香(のりか)がベンチに座ると、時間が止まったかようにグラウンドが静かになった。

 

 西島高校理事長の娘で音楽教師でもある紀香は、野球をルールしか知らない。そんな彼女の表情が冴えないのは、廃部が決まった野球部の監督を、来年度から穴埋めの形で理事長の父に押し付けられていたからだった。

 

“三年間で終止符を打つ。OBの為にもできる限り健闘し、野球部最期を飾ってくれ。”

 

 何度父の言葉を思い出しても、紀香はなぜ自分が監督なのかわからない。引き受けたくはなかったが、教員である責任感だけで動いた事を後悔していた。

 

(三年間の我慢か……。できる限り健闘するには、それなりに選手を選ぶ必要がある。古豪にふさわしい終わり方……か……)

 

 ふとマウンドへ顔を上げると、腕のストレッチをしている少年に紀香は呆れ顔になった。

 

「君ねぇ、まだマウンドにいたの?」

「先生、なんだよその冷たい反応は。俺は西島(せいとう)で野球がしたいんだ!早く続きをやらせてくれよ!」

 

 マウンドを蹴る少年に、紀香はつい苦笑いをしてしまった。

 

「そうよね。君みたいな生徒の方が、弱小の西島にはお似合いよね……」

「お?だったら合格にしてくれるのか?」

 

「何を言ってるの?それはダメよ。私は仕事でここにいる。適当に選びはしないわ」

「ちぇっ。喜んで損したぜ」

 

 少年は、悔しそうに再びマウンドを蹴った。すると、紀香の耳に大人しく優しい声が入った。

 

「どうしますか?紀香先生。彼はマウンドを降りようとしませんがねぇ……」

 

 隣に立っていたのは、前監督で定年を迎える木村。紀香は「そうですね……」と呟くと、左手を顎に当てる。その時、紀香の目に木村が後ろ腰に持つセレクションファイルが映った。

 

「木村(きむら)監督、その資料をお借りしていいかしら?」

「ええ、どうぞ」

 

 木村監督からファイルを受けとると、紀香はパラパラとめくり始める。

 

(斉藤(さいとう)……あった。左投げ左打ち、ポジションは投手。中学での最高成績は……)

 

 紀香(のりか)の目が一点で止まった。予想外の衝撃に、思わず彼女の両手が震えた。

 

「うっ、嘘でしょ!?全国優勝って……?」

 

 信じられないといった紀香の声に、隣にいる木村(きむら)監督は微笑んでいた。

 

「ほほっ、紀香先生。もし彼が野球部に入れば、古豪復活も夢ではないかもしれませんな」

 

 木村(きむら)監督は、マウンドの少年を真っ直ぐ見つめていた。紀香は目を踊らせたが、我に返るとすぐにファイルを閉じた。

 

「フッ。そんな、木村監督。冗談は止めてください。秋の大会で一回戦負けだった今のウチに、あの子が全員ヒットを打たれたのを見ましたよね?たいしたボールも投げていませんし、あの子の全国制覇はサッカー人気で中学生のレベルが下がった結果ですよ」

 

 冷静に答える紀香。その間、一奥はマウンドで楽しそうに投球練習をしていた。少年の球を捕ったキャッチャーのミット音に、紀香は目を向けた。

 

 ふと気になった紀香が見上げると、木村監督は右手を顎に当ててマウンドの少年を不思議そうに見ていた。

 

「おっしゃる通りかもしれませんが、それにしては変ですなぁ。彼が嘘を記入するはずはありませんし、それほどの実績を持った選手が、今の西島高校へセレクションで来るとは考えられませんなぁ……」

「そうですね……」

 

 真面目に選手を見ていなかった紀香の顔が真剣になる。わずかに細めた目は、無意識にマウンドで躍動する一奥をじっと見つめていた。

 

(確かに木村(きむら)監督の言う通りだわ。彼の成績は本物……だとすれば、一体なぜ?)

 

 胸を打つ衝動にかられた紀香は、腰に手を当てて立ち上がった。

 

「斉藤一奥!あなたに質問があります」

「え?」

「あなた、他の高校のスカウトはどうしたの?」

「スカウト?そんなの来てないけど?」

 

 キャッチャーからの返球を捕った少年は、不思議そうに紀香を見た。力の抜けた紀香は、苦笑いをしながら首を傾げてしまった。

 

「あなたねぇ……来てないって、そんなはずはないわ。だってあなた、全中の優勝投手でしょ?」

「まぁそうだけど、スカウトとか言われても俺は知らないって」

 

 まるで他人事のように、一奥は笑顔でボールをクルッと上へ投げた。

 

「紀香先生」

「はい。何か?」

 

 考え込んでいた紀香が振り向くと、木村監督はプリントアウトされた一枚の紙を持っていた。

 

「どうやら彼のいた中学は、打撃のチームだったようですな。そして彼は立ち上がりが特に悪く、序盤に必ず失点しています。どの試合も逆転を重ねて、全国一になった!という事のようですな」

「なるほど、納得しました。で、それはどうしたのですか?」

 

「ホホッ。実は先程、生徒にインターネットで調べて頂きました」

「そうですか」

 

 紀香が紙を覗くと、各イニングの経過が記された今年の全中大会の結果が書いてあった。物静かで照れ臭そうな木村監督をチラッと見た後、紀香はそっとベンチに座る。

 

(木村監督は、できる限り深く選手を知った上で戦術を立てるわ。その分析力は、十分過ぎるほど説得力がある事を私はよく知ってる……)

 

 その時、考え込む紀香の耳に、マウンドの一奥から声がかかった。

「なぁ先生。それより続きはまだかよ。次のバッターが固まってるぜ?」

「うるさいわねぇ、少し待ちなさい……」

 

 紀香は、下を向いたまま左の掌をマウンドへ向けた。それをゆっくり戻して顎に当てると、閃いたように目を大きく開ける。

 

(そっか!彼がまだ九人と言ったのはそういう意味ね。確か、立ち上がりに崩れるのは先発型の投手によくある傾向だったはず……)

 

 紀香は「フフフッ」と笑うと、両腕を上げて伸びをした。

 

「う~ん、はぁ。そうね一奥、続きを始めていいわよ」

「マジかぁ!」

「でも、次にヒットを打たれた時点でセレクションは終了。いいわね?」

「ヒットかぁ……いいぜ!よーし、やってやる!」

 

 腕をグルグル回し、やる気満々でバッターを見る一奥。それとは対照的に、ベンチに座る紀香は気の抜けた顔をしていた。

 

(防御率は通算で7点台。でも、一奥の打率は三割届かない程度。野手なら丁度いいわね)

 

「いくぜ!」

 

 叫びながら振りかぶった一奥の左腕が、右バッターのアウトコースへとボールを放つ。その瞬間、再びカキーンという快音がグラウンドに響いた。しかし、結果はセカンドライナーだった。

 

「よっしゃ!ナイスセカンド」

 

 一奥は一人目を打ち取ると、セカンドを指差して喜んだ。その姿を見ていた紀香は、相変わらずの表情だった。

 

(まぁ、一人くらいマグレで抑えるわよ。って言っても、あの当たりで抑えたとは言えないけど……)

 

 続く打者にも、一奥は快音を響かされる。しかし、まるで天が味方をしているかのように、打球は野手の正面ばかりへ飛んだ。

 結局一奥は、一周目に打たれた九人全員を抑えてしまった。

 

「よっしゃー!」

 

 マウンドでガッツポーズをする一奥を見たベンチの木村(きむら)監督は、「ホホホッ」と微笑む。

 

「紀香(のりか)先生、今度は九人全員抑えましたなぁ」

「まぐれですよ、木村監督。たまたま正面に飛んだだけじゃないですか。打球は全てヒット性。一巡目と変わりません」

 

紀香の表情は、冷めたままだった。

 

「ですが紀香先生。ヒットが出なかったとなりますと、次はどうされますか?このままでは、彼はまたマウンドを降りないでしょうなぁ……」

 

紀香(のりか)は、めんどくさそうな顔をした。

 

「はぁ……一奥!これがあなたの全力という事でいいわよね?」

「当たり前だ!俺は野球で手を抜いた事はないんだよ!」

 

 一奥は噛みつくように言ったが、紀香は「そう……なら……」と怪しく目を閉じた。

 

「木村監督。時間もないですし、このチームの四番は誰ですか?」

「えぇ、それでしたら二年の杉浦(すぎうら)ですが……」

「杉浦君ね……」

 

 紀香は立ち上がると、三塁ベンチに向かって指を差した。

 

「杉浦(すぎうら)君、一打席だけお願い」

「わかりました」

 

 返事をした巨体の杉浦が、打席へ向かう準備をする。紀香は再びスッとベンチへ座わると、足を組んでマウンドを睨みつけた。

 

「一奥、これ以上は時間が許さない。チームの四番、杉浦君で最後よ」

「ふん……って事は、あの先輩を抑えれば合格って事でいいんだよな?」

 

「それは別の話。あなたのセレクションが終わりという意味よ」

「ちぇっ。なんだよ、また先伸ばしかよ」

 

 一奥は不満な態度を取ったが、バッターボックスに立った杉浦の姿に微笑んでいた。

 

(こいつが西島の四番……楽しくなってきたぜ!)

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最後のセレクション

(秋に一回戦で負けたとはいえ、彼はホームランを打っている。バッティングはチーム1。最後とは言ったけど、結果的にもセレクションは終了よ……)

 

 紀香(のりか)は口元を緩めながら、バッターボックスに立つ杉浦(すぎうら)を見つめた。マウンドの一奥(いちおく)が投球モーションに入ろうとしたその時、紀香は突然聞こえたあどけない声に、視線を右へ上げる。

 

「すみません先生。キャッチャー交代しても構いませんか?」

 

 そこには、細身の少年が笑顔で立っていた。

 

「あなたは?」

「田坂遠矢(たさかとうや)です。僕もセレクションお願いします」

 

 少年は、帽子を取って軽く頭を下げた。すると、ベンチのやり取りに気づいた一奥がピッチャープレートを外した。

「あれ?遠矢じゃないか!」

 

 嬉しそうに叫ぶ一奥に、振り返った遠矢はニコリとした。

「久しぶりだね!一奥」

「あぁ!全然気づかなかった。いつこっちに帰って来たんだ?」

 

 嬉しそうに一奥がマウンドから一塁ベンチへ歩きだそうとしたその時、紀香の声に一奥は足を止めた。

 

「一奥!あなたはそこにいなさい」

「へ?」

 

 つまらなそうに一奥はマウンドへ戻る。紀香は一息つくと、遠矢を見ながら足を組み直した。

 

「あなた一奥と知り合いみたいだけど、セレクションを見ていたわよね?なぜこのタイミングで交代なの?」

 

 少し苛立つ紀香の声に、遠矢は苦笑いをした。

 

「いえ、特に理由はありません。僕は彼と小学生の頃にバッテリーを組んでいただけですから。中学では離れましたけど、僕は彼の球を受けてる時が一番楽しかった……ただそれだけです」

「そう……」

 

 特に興味なく返事をした紀香だったが、ファイルを開いて田坂遠矢(たさかとうや)のデータを確認した。

 

(……ん?この子アメリカの学校に?さっきの言葉から、野球は続けていたわよね。キャッチャーという事は、アメリカ人の球を捕っていた。でもそれはつまらなかった……)

 

 紀香の口角が広がる。

 

(普通に考えても、レベルはアメリカの方が上……面白そうね)

 

 閉じたファイルをベンチに置くと、紀香はベンチの様子を伺っていたキャッチャーへ交代を告げた。

 

「遠矢、準備しなさい」

「はい!ありがとうございます」

 

 遠矢はレガースにプロテクターと、キャッチャー用の防具を着け始めた。その姿を、紀香はじっと見ていた。

 

(二人は小学生時代のバッテリー。一人は全中制覇。一人はアメリカで本場の野球をしていた。遠矢のリードであの一奥のピッチングがどこまでかわるのかはわからないけど……まぁ、お手並み拝見ね)

 

 準備を終えた遠矢が走ってマウンドへ行く。一奥は、笑顔で出迎えた。

 

「遠矢、なんで連絡くれなかったんだよ」

「ごめんごめん。日本とアメリカの入学時期がずれててね。中三の卒業見込みをもらうのに苦労してたんだよ」

 

「勉強の話か……」

 

 一奥は、苦笑いで頬をかいた。

 

「それよりさ、アメリカは面白かったか?」

「そうだね。抑えるのに苦労したよ」

 

 二人はそれぞれの三年間を思い出すように、薄暗くなりかけていた空を見上げた。

 

「苦労かぁ……俺もうまく行かなかったよ。遠矢の凄さがよくわかった三年間だったな」

 

 二人は目を合わせると、互いに笑った。

 

「それで、今から助けてくれるんだろ?」

「どうかな?自信はあるけどね」

 

「遠矢、サインはどうするんだ?」

「そうだね、3つかな?」

 

「あのバッターは3つか……あははっ、さすが遠矢だな」

「フフフッ、変わらないね一奥。なら、ストレートにスライダー。後はスプリットでいい?」

「あぁ、いいぜ」

 

 一奥は腕を組むと、素振りを繰り返すバッターの杉浦を見た。

 

「じゃ、行こう!一奥」

 

「おう!」

 

 遠矢は、一奥に右手を上げながらホームへ向かった。笑顔で走る遠矢に、バッターの杉浦は気合いの入った表情で睨みつけた。

 

「おい、キャッチャー。俺を抑える作戦は決まったか?」

「えぇ、自信はありませんけどね」

 

 マスクを着け、座った遠矢が右バッターボックスに立つ杉浦を見ると、その構えは自信とオーラで満ちていた。だが遠矢に焦りはなく、逆にワクワクしていた。

 

(さてと。セレクションに遅れたおかげで、一奥の現状は把握できたからね。まずはこれで)

 

 キャッチャー遠矢のサインに頷いた一奥が振りかぶる。そして、運命のセレクションが始まった。ピッチャーの一奥が、遠矢の構えるミットめがけて左腕を振る。

 

「でやっ!」

 

 シューっとボールの回転音がうなる。打つ気満々の杉浦は、初球から反応した。

 

(インハイのストレートだと!ナメるなぁ!)

 

 巨体を揺るがし、杉浦のバットはカキーンと快音を残した。

 

『いったぁ!』

 

 盛り上がる三塁ベンチの野球部メンバーたち。しかし、惜しくも打球はファールとなった。

 

「おっしい」
「さすが杉浦だな」
「まぁ、次はレフトスタンドさ」

 

 大ファールを見ていたバッテリーだったが、二人には笑みがあった。それはまるで、小学生時代を思い出すような表情。そして、互いの成長を喜ぶ顔だった。

 

(さすが遠矢。俺ならホームランで終わってたな!)

 

遠矢から返されるボールを、一奥はパチンとグローブを振りながら取った。

 

(さすが一奥。ナイスボールだ!次はこれで)

 

 遠矢が二球目のサインを出す。それを見ている一奥は、早く投げたくてウズウズしていた。

 

(へぇ~、やっぱり遠矢は面白れぇ)

 

 二人がサインを確認する中、バッターの杉浦も一奥を見ながら「フン!」とニヤついていた。

 

(初球はインハイのストレート。どんなキャッチャーかと思ったが、俺には通用しない!あのファールの後は、お決まりの外。球種はスライダーだ!)

 

 しかし、投じられた球を見た杉浦の上半身は、後ろへと引かされた。

 

(くそっ。インコースのスライダーだと!?)

 

 豪快な空振りと共に、遠矢のミット音がグラウンドへ鳴り響く。「ストライクツー」という審判のコールを聞きながら、杉浦は唇を舐めた。

 

(このキャッチャー、強気のリードか。完全に裏をかかれたな……)

 追い込まれたが、杉浦は余裕の表情で構えた。だが、キャッチャーの遠矢は杉浦が見せた空振り直後の表情を見逃さなかった。

 

(なるほどね。それなら……)

 遠矢からのサインが出ない。一奥が首をかしげると、遠矢はマスクを外した。

「あのー、先輩」

「ん?なんだ」

 

「次の球がラストなんですけど、三振する球と、三振するかもしれない球。どちらがいいですか?」

 杉浦は「なにっ!?」と怒りをあらわにし、構えを解いて振り返った。

 

「貴様ぁ、追い込んだだけで勝ったつもりか!」

「いえ、そんな余裕はありませんから。ただですね、もう投げられる球種が一つしかないんですよ」

「なに?」

 

 すると、杉浦は「ガハハ」と豪快に笑った。それと同時に、杉浦は遠矢の潔さを気に入った。

 

「それなら、ホームランになる球を投げさせろ!」

「ホームラン?ですか……では、インハイでどうでしょう?」

 

「大好物だ!」

 勝負とは言えない、キャッチャー遠矢の無謀な提案。それを受けたバッターの杉浦。そして、一奥がサインに首を縦に振り、投球モーションに入った。

 

「お前の限界は、俺が超える!」

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