九条(くじょう)は左バッターボックスに入ると、マウンドの一奥(いちおく)を睨みつけていた。
一奥(いちおく)と九条(くじょう)の二人は、中学時代の優勝バッテリー。一奥(いちおく)の球を受けていた九条(くじょう)は、当然一奥(いちおく)の欠点を熟知している。
(去年の上橋中(じょうばしちゅう)に、一奥(おまえ)以上のピッチャーはいなかった。それは練習でよくわかっている。お前はブルペンが嫌いだった。打撃投手の方が練習になると言い、俺とお前は何度も対戦した。だが、試合になると決まって練習以下の球になる。スポーツの世界で本番に弱い人間をイップスと呼ぶが、正にお前はそれだった。だから俺たちは、打撃のみで全中制覇を成し遂げたんだ……)
厳しい表情のまま、九条(くじょう)はバットを構えた。
(一奥(いちおく)。お前は打撃投手としては一級品だ。だが、いい選手を集められる高校野球では、お前は必要ない。甲子園優勝は、打撃だけで届くほど甘くはない!)
「次は……九条(くじょう)か……」
一奥(いちおく)が投球モーションに入った。
(九条(おまえ)の大嫌いなクロスファイヤー……今日こそホームランにしてみろ!)
一奥(いちおく)のピッチャープレートの立ち位置が、一塁側へ変わった事に九条(くじょう)は気づいた。
左バッターにとって必然的に対戦の少ない左ピッチャーのアウトコースは、経験の少なさという意味で苦手な球になりやすい。右ピッチャーと同じアウトコースでも、左ピッチャーの場合は角度が出る。
そして一奥(いちおく)ほどの速球を投げる左ピッチャーとなると、経験はさらに少なくなる。
その球を苦手としていた九条(くじょう)は、練習で一奥(いちおく)のクロスファイヤーと何度も対戦した。しかし、結局一度もホームランにした事はなかった。
だが、投じられたストレートを見た九条(くじょう)は、興奮ぎみにスイングへと入る。
(この球だ!だが一奥(いちおく)、今の俺には通用しない!)
カキーン!……ボン
九条(くじょう)にとって、中学時代の自分の限界を超えた瞬間だった。打球は、一歩も動けなかったセンター要(かなめ)の遥か頭上を通り、バックスクリーンへ飛び込んだ。
ダイヤモンドを一周する九条(くじょう)に、喜ぶ姿はない。三塁ベンチの梯(かけはし)メンバーたちは、九条(くじょう)なら当然の結果という表情を浮かべる。しかし、九条(くじょう)の心は違和感を覚えていた。
それは、キャッチャーとして一奥(いちおく)の球を受けていた九条(くじょう)だからとも言える事だった。
(今のクロスファイヤーのスピードとキレ。試合では一度もなかった球だ。だが一奥(いちおく)は、それを投げた……考えすぎか。これは、ただの練習試合だったな)
ホームインし、ベンチへ戻る九条(くじょう)をネクストバッターの八木(やぎ)が少し驚いた表情で出迎えた。
「九条(くじょう)。今の一奥(いちおく)球だが、生きてなかったか?」
「これは公式戦ではない。そういう事だ」
「そうか、なるほどな」
ニヤリと納得した八木(やぎ)は、俺も続くと意気込んで右バッターボックスに立った。その姿を見たマウンドの一奥(いちおく)は、まだ中学時代のままだった。
(ついに九条(くじょう)に打たれたか……次は八木(やぎ)……このところ、いじめ過ぎたからな。大好きなインハイのストレートを、投げてやるか……)
九条(くじょう)の言葉に納得はしたが、一球確認したかったバッターの八木(やぎ)が初球を見逃す。
パーン「ストライク」
キャッチャー遠矢(とうや)の返球に目もくれず、一奥(いちおく)は八木(やぎ)を見つめたままボールを捕った。
(なんだよ八木(やぎ)、打たねぇのか……なら今日も、大回転と行くぜ!)
一奥(いちおく)が二球目の投球モーションに入ったその時、バッターの八木(やぎ)は笑みを浮かべた。
(普通のストレートだった。今の俺なら、楽々ホームランに出来たボール。やはり九条(くじょう)の言った通り、あいつはイップス一奥(いちおく)だ!)
八木(やぎ)は中学時代、縦の変化を苦手としていた。一奥(いちおく)の思った大回転とは、当時の八木(やぎ)が空振りばかりしていたフォークボールの事だった。
(フォークか!ストレートよりマシだが、キレが甘いぜ!一奥(いちおく))
カキーン!
今度はレフトスタンドへ飛び込む。打った八木(やぎ)は、大きくガッツポーズをしながら一塁ベースを蹴った。一奥(いちおく)のフォークに苦しみ、一番覚えていた八木(やぎ)だからこそ、その喜びは爆発した。
またも打たれた一奥(いちおく)は、虚ろな目でレフトスタンドを見ていた。
(ついにやられた。ナイスバッティングだぜ……八木(やぎ))
これで試合は5点差。その後も一奥(いちおく)のスタイルは、中学時代の練習中のまま変わることはなかった。
続く六番の三好(みよし)、七番の六川(ろくがわ)、八番の四本(よつもと)にも連続ホームランを打たれ、点差はついに8となった。
ネクストの九番ピッチャー松原(まつばら)は、ホームインした四本(よつもと)を笑顔で迎えた。
「ナイスバッティング、四本(よつもと)」
「楽勝楽勝。まぁ、松原(おまえ)ならこんなに点数はいらないけどな」
「あぁ」
返事をした松原(まつばら)が、バッターボックスへ向かおうとしたその時だった。松原(まつばら)の耳に、バックネット裏から懐かしい声が入った。
「あれ?お前、松原(まつばら)じゃん!久し振りだな」
名京の斜坂再び
立ち止まった松原(まつばら)の笑顔はすぐに消え、バックネットへ振り向いた。声をかけた男の着ているジャージの胸部分には、名京(めいきょう)と刺繍(ししゅう)がされていた。松原(まつばら)が、険しい表情に変わる。
「斜坂(ななさか)。どうしてお前がここにいる」
「それは俺の台詞なんだけどなぁ。まぁいいや。俺はランニングのついでに、俺のブログにコメントしろと一奥(いちおく)に言いに来ただけだよ。それよりお前、俺が名京(めいきょう)高校へ行くって言ったら、確かライバル校の愛報(あいほう)高校へ行くって言ってたよな?それが何で……えーっと……読めねぇなぁ……」
「梯(かけはし)だ!」
「ほぉー、それかけはしって読むのか。ブログのネタにするかな……。で?その梯(かけはし)になんでいるんだよ?」
階段を降り、斜坂(ななさか)はバックネット裏の見学用ベンチに座った。冷静さを取り戻した松原(まつばら)は、「フッ」と笑いを返す。
「驚くなよ斜坂(ななさか)!このチームはな、俺たちの代の全中優勝メンバーだ!」
得意気に言い放った松原(まつばら)だが、斜坂(ななさか)は首をかしげた。
「全中優勝?あ~、って事は、俺が投げてれば勝ってた中学か。ふふ~ん、なるほどねぇ」
斜坂(ななさか)は、腕を組んで微笑みを返した。だが、それを聞いていたネクストバッターズサークルの五十嵐(いがらし)が、怒りをあらわにした。
「おい、お前。去年の全日本ユースを辞退した斜坂(ななさか)か?」
「ん?あぁ、俺は飛行機に乗るのはメジャー行きと決めてるからな。ってお前、まさか斜坂剛二(ななさかごうじ)の右肩上がりを読んでねーのか?プロフィールに書いてあるだろ?」
「知らねぇわ!そんなブログ。それより、俺たちの優勝をバカにするのは許せねぇ。この試合はもう終わりだ。今すぐ勝負しろ!」
「勝負?勝負って、何言ってんだ?お前」
すると五十嵐(いがらし)に続いて、ぞろぞろとバックネット際に梯(かけはし)メンバーが集結した。
だが、球審がそれを止めた。
「次のバッター、早く打席へ」
球審の声を聞いた斜坂(ななさか)は、バッターボックスを指差した。
「ほれ、松原(まつばら)。球審が呼んでるぞ。お前らもまだ初回なんだろ?早く戻って試合続けろよ」
球審の指示で、振り返った松原(まつばら)は右バッターボックスへ向かう。梯(かけはし)のメンバーも、ベンチへと下がった。
その下がり際、ネクストバッターズサークルへ座った五十嵐(いがらし)が、再び斜坂(ななさか)を挑発した。
「お前ら名京(めいきょう)高校とは、夏の本番でやる。その時、お前をボコボコにしてやるからな」
しかし、斜坂(ななさか)は微笑んでいた。
「いいぞ。楽しみにしてるわ……えーっと……か、か……」
「梯(かけはし)だ!」
「おーそれそれ」
「くっ」
五十嵐(いがらし)が試合に戻ると、斜坂(ななさか)はニヤリとしながらグラウンドを見渡した。
(へぇ~、こいつらが去年の優勝メンバーか。歴代全中優勝チームの最多総得点記録を塗り替えた打線だったな……なら一応、一通り見てから帰るか。で?そのエースの一奥(いちおく)は、現在元同僚相手に火の車と。ま、一奥(いちおく)は打力のなかったウチの中学に打たれまくったらしいからな)
ニコニコと斜坂(ななさか)が見つめる中、今だ復調の兆しさえ見えないマウンドの一奥(いちおく)に、微妙な変化が表れた。
右打席に立った松原(まつばら)を見た一奥(いちおく)は、正気を取り戻していた。
(こいつ誰だっけ?……ん?試合前に挑発してきた奴か)
一奥(いちおく)の表情の変化に、キャッチャーの遠矢(とうや)は気づいた。一奥(いちおく)からいつもの覇気は感じられないが、遠矢(とうや)がサインを出すと、一奥(いちおく)は頷いた。
バシン!「ストライク」
捕った遠矢(とうや)は、少しだが安堵した。
(よし!ほぼ要求通りのストレートが来た。このバッターがきっかけになれば、いつもの一奥(いちおく)に戻るかもしれない……)
遠矢(とうや)が一奥(いちおく)へ返球し、二球目のサインを考えていたその時だった。バックネット裏からまた声が聞こえてきた。
しかしそれは、怒りにも叫びにも似た声だった。