「遠矢(とうや)は左で打てるの?」

 ベンチの一番左に座る紀香(のりか)監督が右を向き、ベンチ全体を見た。目が合ったのは、仟(かしら)だった。

「私は一度も……」

 そう言いながら、仟もベンチを見渡す。西島ベンチは、誰一人この状況がわからない様子で首をかしげていた。そしてそれは、マウンドの幸崎(こうさき)も同じだった。

(どう見ても構えがぎこちない。ただの奇襲か?)

 幸崎(こうさき)は、構わずストレートを投げる。全くスイングになっていない遠矢は空振りした。

「ストライク」

 すると、観客席からため息とも取れる声が漏れた。それは、ピッチャー幸崎の27球完全試合が終わった瞬間に対するものだった。そして、遠矢(とうや)の左打ちに期待した西島ベンチからも『う~ん……』と声が漏れた。

 キャッチャー中西(なかにし)からの返球を捕った幸崎(こうさき)は、そんな西島ベンチを横目で見つめた。

(遠矢(あいつ)は限界(リミット)リミッター。こうなる事は初めからわかっていたはず。ベンチも計算外のようだが、狙いはなんだ……)

 その答えは、二球目も豪快に空振りした後に遠矢が示す。ツーストライクと追い込まれた遠矢は、ススッと右打席に立った。その姿にマウンドの幸崎は、(そういう事か……)と思わず微笑む。

 幸崎が目にしたのは、幸崎と同じゼロスイングの構えを見せた遠矢だった。

(幸崎さんに、僕のリズムは渡さない!)

(面白い……やってみろ!)

 三球目、ピッチャーの幸崎(こうさき)は同じストレートを投げた。

(いっけぇ!)

 遠矢は捨て身の左打ちで幸崎のリズムを狂わせ、右のゼロスイングでリズムリミッター超えを狙った。そしてストレートを完璧に捉える。

 カキン……パン!

 ピッチャーライナーを捕った幸崎は、ニヤリと遠矢を見つめた。

 「その程度の奇襲では、俺のリズムリミットは超えられない」

 打ち取られた遠矢は、幸崎を見ながら苦笑いをしてバッターボックスを去る。

(やっぱりダメか。捉えたつもりでも、まだリズムリミットに打たされてる)

 遠矢がベンチへと歩き出すと、ネクストからバッターボックスへ向かった一奥(いちおく)が「よっしゃぁ!」と声を出した。一奥は遠矢と目が合うと、「へへっ。」と笑った。

 遠矢が一塁ベンチへ戻ったその時、ベンチの西島メンバー数人が一奥の姿に不思議がる。『んん?』と目を開いた。それに気づいた遠矢は振り向き、(あの顔だからね)と、微笑んだ。

 皆の注目を浴びる中、一奥は右打席に立っていた。
「俺が最初に幸崎を抜いてやるぜ!」

 すると、観客席からぽつりぽつりと笑い声がグラウンドへ響いた。

「だはっ。おいお前!左投げ右打ちなんて見たことねーぞ!」
「どうせアウトだ!時間の無駄だからピッチャーライナーの一球で終われや!」
「そうだそうだ!幸崎に三球も投げさせるな!」

 ヤジを聞いていたスタンドの舞理(まいり)記者は微笑み、愛理(あいり)はキョロキョロしながら何故か恥ずかしがっていた。そして、ベンチの紀香(のりか)監督も笑っていた。

「ほんっと、一奥は見てて飽きないわね」

「そうですね。でも……」

 そう言いながら、仟(かしら)が紀香(のりか)監督の隣に座る。

「なぜか私は、一奥さんに期待しちゃいます。遠矢さんとは、意味が全然違いますけどね」

「仟?」

 紀香監督は、「フフッ、そうね……」とバッターボックスで楽しそうにボールを待つ一奥を見つめた。
 少し異様な雰囲気を察したマウンドの幸崎は、一度プレートを外す。

(なぜだろう。右の一奥のリズムがわかりにくい。打たれそうな気がするこの雰囲気はなんだ……)

 幸崎は、ロジンを何度も握りながら右手を見る。いつもと違う幸崎の姿に、キャッチャーの中西は違和感を持った。

(どうした?幸崎。一奥(こいつ)は左打ちだ。右でお前のリズムリミットを超えられる訳ないだろ!)

 自信を持って構えたキャッチャーの中西を見たピッチャーの幸崎は、迷いを断ち切って振りかぶる。
(中西……そうだな。俺は中西(おまえ)のミットめがけて投げるだけだ!)

 幸崎が右腕を振りきった。

(さぁ来い!斉藤一奥(さいとういちおく)!)

 投げ終えた幸崎は、ピッチャーライナーへ備えてグローブを構える。一奥もスイングに入った。

「いっけぇー!」 カキン!

『おお!!』

 快音と共に、一塁ベンチから歓喜が飛ぶ。一奥の打球は、ピッチャー幸崎の顔面へ向かっていた。
 バッ……

 幸崎は、打球をグローブの土手に当ててしまう。完全捕球は出来ず、ボールはそのまま地面に向かって落下した。

 それを見て走り出した一奥が、(よし!)と思った瞬間だった。

 パシッ…「なにっ!?」
「アウト、チェンジ」

 驚いた一奥が目にしたのは、右の素手でボールを捕った幸崎の姿だった。すぐにマスクを外したキャッチャーの中西は、「大丈夫か!」と幸崎に叫ぶ。幸崎はニヤリと笑って頷いた。打ち取られた一奥は、拾ったバットを担ぎながら幸崎のプレーを笑顔で称えた。
「へへっ、やったと思ったけどな。ナイスキャッチ!」

 顔を守るように出したグローブを下げる幸崎。その目は、微笑みながらベンチへ下がる一奥を見ていた。
(一奥のスイングはぎこちなかったが、打球は西島の誰よりも生きていたな。不思議な奴だな……)

 幸崎はボールをポトリとマウンドへ落とし、三塁ベンチへ下がった。

 一奥が満足顔でベンチへ歩いていると、ファーストミットを持った杉浦(すぎうら)が突っ込んできた。
「おい一奥、てめぇ!なんだ?今のへなちょこスイングは!」
「えっ!?やべぇ」

 杉浦に襲われた一奥は、一塁ベンチをスルーしてファウルグラウンドへ走って逃げた。

「勘弁してくれよ!杉浦先輩。一応いい当たりだっただろ~!」
「そういう問題じゃねぇ!次は左で打て!」

「わっ、わかったよぉ」

 一奥を追いかけていた杉浦は、観客席からの笑い声に気づいて我に返る。少し顔を赤らめて、ファーストへと歩き出した。走りながら振り向いた一奥は、杉浦の歩く姿を見て立ち止まる。

 ホッと一息ついた一奥が一塁ベンチへ走り出すと、観客から一奥へ声援が飛んだ。

「斉藤、惜しかったぞー!」
「いい当たりだったぜ!」
「次もへなちょこ打法、期待してるからなー!」
「えへへ」

 一奥は照れながらスタンドを見て、ようやくベンチへ下がった。グローブを持った一奥は、元気にマウンドへ向かう。

「しゃぁ、行ってくるぜー!」

 そんな一奥の姿を見ていた三塁ベンチの幸崎は、ベンチで静かに腕を組んだ。すると、隣へキャッチャーの中西が座る。

「幸崎、何かあったのか?」

「いや、気にする程の事ではないよ。ただ、一奥(あいつ)が俺と白城(しらき)を本来の姿に戻したのを思い出していただけだ。一奥が注意人物なのは、初めからわかっているからな」

「まぁな。だがこれで、幸崎(おまえ)のタイムリミットは西島高校を一通りを抑えた。後は……」

 中西がベンチに座る新田(にった)に送った視線を追うように、幸崎(こうさき)も新田を見る。

「新田(あいつ)が、この試合を動かす……」

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